こんにちは!
豊田市のパワースポット
自分開花サロンBe-jinの田中真美子です。
シリーズで自分史を綴っています。
前回はなぜか病気が怖くて仕方なかった私が
健康オタクになるまでをお伝えしました。
前回の記事はこちら
今回は子供時代のエピソードをいくつか・・
私は
祖父は明治生まれの教員
父は地方公務員という
西暦1600年ごろから代々続く家に
生まれました。
写真は1歳の頃
祖母に抱かれている私です。
祖父母、両親、私、妹と弟の7人家族で
高校生の時、父が病気になるまでは
特に大きな問題もなく
ほのぼの暮らしていましたが
今思うと、結構厳格な家庭だったと思います。
夕食は家族揃って
配膳はおじいちゃんとお父さんの分を先に
など、家長制度の名残のような雰囲気で
祖父は、代々続くこの家を守らなければ
という思いが強かったので
保守的な考えがベースだったかもしれません。
私は孫だったし、女の子ということで
厳しく言われたことはなかったですけどね。
父も堅実な人で、門限を決められたり
礼儀など、割とうるさく言う人でした。
私自身は、今では考えられないほど
かなり敏感な子で
新しい環境に慣れるのが大変でした。
保育園に通い始めた時は
保育園のにおいが嫌で、登園拒否。
泣きながら通っていました。
特にトイレの消毒の臭いは
「おえっ」となってしまうので
トイレに行けず、
時効だから言うけど
いつも、外でお漏らししていました。笑
(詳しくは覚えていないけど
おそらくパ◯ツを履いたまま
外でしていたような・・)
あと、生ぬるい牛乳が飲めなくて
こっそりゴミ箱に捨てたり。。
かなりの問題児
(コップに注がれてたものを
そのままじゃーっとごみ箱に入れてた気がする。汗
そして、誰ですか?
って先生が言っていても知らん顔
先生、ほんとごめんなさい)
小学生になると
一段と嫌々加減がエスカレートし
毎日大泣き、
母に引きづられて学校に行っていました。
当時、学校を嫌がる子なんていなかったし
小さい学校で、学校中に聞こえるくらい
泣き叫んでいたので
恐らく、校内で有名人だったと思います。
担任の先生が
私にだけ特別に交換日記してくれたり
インコを飼ってくれて
そのお世話をしに学校に来てねと
あの手この手を尽くしてくれました。
何がそんなに嫌だったのかわからないけど
大きくはトイレと給食かなあ。
相変わらず、暗くて臭いトイレは嫌で
でも、流石にお漏らしはできなくて
家に帰るまで我慢してたり
息を止めてトイレに行ったり
トイレには苦労しました。
(このことがあったので、
公務員時代、トイレにこだわり
便所(女)王と呼ばれるようになりました)
そして、給食は、ほんとに苦行でした。
残さず食べないといけない時代だったので
給食の後の掃除の時間まで残って、
埃の舞う中、給食を泣きながら食べるという・・
今では考えられないですよね。
時代って恐ろしい・・
母もきっと悩んでいて、
今みたいにカウンセリングや
セラピーなんてなかった時代
市の青少年相談所みたいなところに
通っていました。
1年生の2学期くらいからは、
普通に通えるようになり
近所の原っぱで遊んだりするような
野生児になりました。
中学校に行って
みんなおしゃれに目覚め
女子っぽくなっていく中
私は相変わらず、
真面目で地味な田舎の子って感じでした。
背も小さくて、背の順では
一番前だったので
中学の友達に会うと大きくなったね
と言われます。
ほんとは校則違反だけど
みんなやってることを私がやると、
なぜか、私だけ見つかって怒られる・・
みたいな要領の悪い子でした。笑
ある時、休みの日の部活の帰りに
ガムを噛みながら下校しているところを
熱血系の先生に見つかり
10クラス分の廊下の雑巾かけ
往復100回やらされたなー
そんな感じで特別に秀でたところはなかったけど
真面目なので、成績はぼちぼち
先生ウケは良かった気がします。
そんなこんなで特に面白い話題はないですが
(そうでもない?笑)
順調に大きくなりました。
でも、実は小学校の頃から持っていた夢に向かって
着実に進んでいました。
次回はそのお話を🎶
最後までお読みいただきありがとうございました。
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